2015年8月24日月曜日

自分は特別で優秀な弁護士だ

最近アメリカでは、子供に、みんながトロフィーをもらえるという教育を実施しているようだ。例えばスポーツ大会で負けても、みんなが参加賞というトロフィーをもらって、誰一人負け組がいないとして、子供たちの自尊心を高めるという教育だ。ひどい場合は、スコアさえつけないのだそうだ。「あなたは、Special(特別)なのよ」と言って子供を褒めまくって育てるのである。

これが本当に子どもの将来にとって良いことなのか、悪影響の方が大きいのではないかということを扱っているテレビ番組があった。
この傾向が始まったのは1980年代の初めで、根柢には子供たちのSelf-esteem (自尊心)を高めることが子供の教育にとって良い影響を与えるというコンセプトがあるようだ。次第にこの教育は度を超えていき、現在の、参加すれば皆がトロフィーをもらえる、学校の成績も悪い成績をつけないという、極端な褒める教育へと発展したようだ。
しかし、大学に進学し、社会に出ても、I'm special(私は特別)と思ったままの人も多くなり、社会から悪い評価を受けると愕然とし、社会は私の真の能力について正当に評価していない等の不満を抱いたりするようだ。
さらに、生物学的にも多くの褒美をもらっていると、褒美を得るための努力をしなくなり、途中で諦めたり、集中力が続かなくなるという研究もあるようだ。


ふと思い出したのが、アメリカの「自分は特別で優秀弁護士だ」と吹聴する弁護士の数の多さである。しかし、そう言っている弁護士が優秀とは程遠い弁護士であるということは多い。

もしかして、このようなアメリカ式の教育の副産物なのかと考え込んでしまった。
最近のみんながトロフィーをもらうという行き過ぎた教育によって、将来の弁護士は、「自分は特別で優秀な弁護士だ。私を選ばないクライアントが悪い。」とかと言い出すのだろうか。


これは、アメリカだけの話で終わるのだろうか。将来こんなことが日本でも起こるかもしれない。
入学者数を確保できない日本の法科大学院が、「あなたは素晴らしい、特別だ」と騙して間違っても優秀とは言えない人をロースクールに入学させ、司法試験の合格者数を確保する国策により下位の人までもが司法試験に合格し、素晴らしいと褒められ、法科大学院でプロセスを経た弁護士は最高であるとの教えをそのまま信じて、その気になったまま弁護士になり、クライアントがいなくても「自分は特別で優秀な弁護士だ。私を選ばないクライアントは頭が悪くて自分の優秀さを分からないんだ。」と思い込むことがあるかもしれない。