2013年11月26日火曜日

予備試験早期合格者の方が弁護士には向いているのでは?


アメリカ法曹事情からずれる内容であるが、もう一言だけ予備試験について述べておきたいことがある。


弁護士としての経験に基づく個人的な感想であるが、予備試験に早期合格するような人の方が弁護士という職業には向いているのではないかと感じる。


離婚、過払い返還、個人破産などのルーティン的な事件を薄利多売で引き受けるという弁護士になろうというのであれば話は別であるが、例えば、海外進出なども念頭において新しい業務進出を考えている企業の企業法務をも手がける弁護士になりたいと思っている場合は、絶えず直面する新しい未知の問題等を自分の力で解決する精神と能力が要求される。短時間で問題点を把握し、必要な情報収集をし、その問題解決のための最適の手段を考え出し、解決に向って全力を尽くせる精神と能力である。他人に頼ろうとか、人に教えてもらおうとか、一度やったことがある仕事しかこなせないと考える傾向の強い人間には向かない仕事である。
 

法科大学院の本来の目的は法曹になるために大学院の教授が懇切丁寧に学生を指導して司法試験合格への道を切り開く教育機関のはずである。極端にいえば、大学院の教授や同級生と共同で一緒に頑張って合格しようという精神の持ち主の方が、予備試験を受験しないで法科大学院に進学しようと思うのではないだろうか。
 

予備試験という安価で就職にも有利な強力な手段があるのにも関わらず、法科大学院という団体に所属することに安心感を求めるというのでは、弁護士になってもその先に苦難が待っていると思う。他人に頼ろうとか人に教えてもらおうと考えるのではなく、目の前にある問題を短時間で自分で解決する意欲と能力がなければ、晴れて弁護士になったとしても、同じような業務処理を薄利多売でこなす弁護士にしかなれない。
 

以前、「新人弁護士の育成は自己の利益にならない?」で記載したが、先輩弁護士から手取り足取り仕事を教えてもらえる時代は終わりつつある。自分でかじりついて研鑽しなければ、経験もつめないし、進歩もできない。
 

予備試験という安価で就職にも有利な強力な手段を使って、短期間に司法試験に合格し、自らの道は自ら切り開くような心意気と能力がなければ弁護士になってから生き残っていけないのではないかと思うのである。





2013年11月19日火曜日

アメリカ式履歴書が物語る日米の働き方の違い

アメリカで初めて就職活動をしたときは、アメリカ形式の履歴書に面食らった。しかし、今では、アメリカ形式の履歴書の方が優れているし、合理的だと思っている。
逆に、雇用するか決定する上での重要な情報が完全に抜け落ちている日本の履歴書は役に立たないとすら感じている。

アメリカの履歴書には、写真の添付と生年月日の記載がない。日本のように「40歳くらいまで」と募集要項に年齢を記載することは禁止されるので、生年月日を書かないのである。
また、名前からでは人種も分からないし、名前によっては性別が分からないこともある。

ただ、面接に呼ぶかどうか判断するために重要な内容は十分に記載されている。
以前の職場でどのような業務を行っていたかが的確に記載されている。また業務に関して、自分が講師をしたセミナーの記載、出版物や発表した論文などが記載されている。

アメリカはat willで雇われている場合、いつでも自由に解雇される可能性がある。また、同じ職場で同じ仕事を続けた場合に出世する可能性は比較的少ない。例えば、会社内部の人が出世してマネージャーになるとは限らない。外部から経験豊富な人をマネージャーとして新たに雇い入れることも多いのである。したがって、働きながらビジネススクールを卒業したり、今の職場で習得した技能をもとに再就職して今より高いポジションを得ようとする人は多い。

このため、向上心のあるアメリカ人は定期的に履歴書をアップデートしている。
というよりか、アップデートできるように日ごろから職場内と職場外で自己研鑽をする。

例えば、オフィスで分担する仕事についても、履歴書に書けば有利になる仕事、つまり転職先を見つけやすくなる仕事を担当しようとする。そして担当した仕事を履歴書に書き加える。弁護士であれば、履歴書の職歴欄で実際にこなした業務として「ドキュメントレビュー、日本のクライアントとのコニュニケーション」と記載してある履歴書と、「デポジションで証人に尋問、サマリージャッジメント申立書の起案」と記載されている履歴書とでは、雲泥の差である。前者は、パラリーガルのようなことをやっている弁護士という印象を与え、後者は弁護士としての仕事をしている弁護士という印象が伝わる。当然、後者の弁護士の方が面接に呼ばれる可能性が高くなるだろう*。

アメリカ式の履歴書は、自分の雇用市場での価値を常に考えることにつながる。

日本の履歴書は基本的に転職することを念頭においていない。たとえ転職するとしても、どこの大学を卒業したか、どこの会社で働いてたかという形式的なことが重要な判断材料となる。しかし、それらはあまり役に立つような内容でない。

一定の技能を持った人を雇い入れたいという場合には、国家資格試験を基準に判断するしかない。それが原因なのか日本にはやたらたくさんの国家資格があるような気がする。


日米の履歴書の違いは日米の働き方の違いに反映されている気がする。




*(注)ある程度経験年数のある弁護士が他の法律事務所に転職する場合は、クライアントをどの程度持っているかの方が重要である。

2013年11月13日水曜日

法曹界も国際競争しているという認識が必要では? ― 予備試験受験資格制限が及ぼす悪影響


最近、日本の法科大学院が空洞化し、受験生が激減し、司法試験受験資格を授与する予備試験の人気が高まり、さらに法科大学院の人気が落ちているという話しを聞く。そこで、一部には予備試験の受験資格に制限を加えて、若くて優秀な大学生や大学院生の受験を阻もうとしているようだという話もあるようだ。

予備試験に受験制限を加えて大学生や大学院生に受験させないようにすれば、完全に司法試験から優秀な人材を遠ざけることになる。

法科大学院の学費と、貸与制、その先の就職難、高額な弁護士会費と、弁護士志望者にとって四重苦の時代に、なぜ救世主の予備試験に受験制限を課すのか。この制限によって法科大学院の学費と2年~3年間という貴重な時間を節約できないとなれば、大きな打撃である。また、優秀な人材は困難とされる資格試験にチャレンジする精神がある。予備試験がチャレンジに値するエリートコースとみなされなくなれば、つまり、受験資格制限がなされれば、チャレンジしたいと思う優秀なエリートから見ても日本の法曹資格は魅力のないものとなる。

では、その優秀な人材は何処に向うのか。

優秀な人材を遠ざけることが、どんな結果を招くか、もっと大きな視野から考える必要がある。

もともと国際取引などにも興味を持っていた法曹志望者たちは、大企業に就職しても機会があれば、アメリカのロースクールに留学するなどしてアメリカの法曹資格を取得する可能性は高いだろう。

以前は日本の司法試験に合格しなかった者がアメリカの資格を取っていると揶揄されたこともあったが、そんな時代はもう終わった。法科大学院に行くのは就職が失敗した者の逃げ道だと言う人すらいる今の時代に、日本の法曹資格なしにアメリカの法曹資格を取得するのを躊躇する者はいないだろう。

そのようにして、日本の法曹資格はないが、アメリカの法曹資格を持つものが、日本の企業内に増えていくことになる。

すると、どのような影響がでるだろう。

やはり、人間は自分が良く分かっている法律で仕事をしようとする傾向にある。企業内にアメリカ弁護士資格を持つ者が増えれば、アメリカの法律を日々の業務に持ち込みがちになる。例えば、企業内でアメリカ流の契約書を使う傾向が高まっている気がする。また、法改正をする際に、アメリカ法を参考とする法改正がますます増えるだろう。

このようにして日本法がますますアメリカ法に似通った法に改正されていく。それにより、米国の弁護士資格を持った者の活躍の場が広がることになるだろう。

また、日本の法曹への優秀な人材の枯渇は、日本の大手事務所の人材不足に直結する。そうなれば、大企業が英米系の法律事務所に依頼する傾向が高まる可能性もある。

こうして、日本の資格を持つ日本の法曹界自体が国際競争、特に米国との国際競争に敗れ衰退していくことになるかもしれない。

既にその傾向は始まっているのではないかと危惧している。


アメリカは日本から見ると1つの国であるが、実際は50の州があり、各州異なる法を持つ。連邦政府の権限はかなり制限されており、各州は、軍隊や外交権こそ有してはいないが、通常の国家に近い権限を持つ。また、ほとんどの州が陸続きであり、全州で英語が通用するのであるから、一つの州が、企業にとっても非常に不利な法律や税制度を採用したら、その州にいる企業は他の州に逃げていくことが可能である。逆に地理的な立地があまりよくない州や弱小の州は、企業にとって他の州より魅力的な法制度を整備することで、企業を誘致する。デラウェア州で設立された会社が非常に多くなったりするわけである。つまり、今のようなグローバル化が訪れる以前から、アメリカでは州同士で切磋琢磨していたわけである。そこで、法制度がグローバル化に与える影響についても熟知している。

これに対して、日本は、島国であり、今まで特殊な日本文化と日本語に守られていた。そこで、「グローバル化で外国と競争しなければならない」と口では言っていても、それが実際にどのようなことなのか実感としては分かっていない人が多い。


予備試験受験資格制限議論を含む現在の司法改革が、日本の法律事務所を英米系事務所との競争から撤退させるかもしれない、とか、アメリカ流の法制度の拡大につながるとか大きな視野を持って考え直してはどうか。

2013年11月1日金曜日

弁護士の使命は人権擁護 - のはずがない!?


日本では、「弁護士の使命と役割は人権擁護である」というのは皆が口をそろえて言うことである。もし、日本の弁護士がその感覚のままでアメリカの法律事務所で働いたら、カルチャーショックを感じることは間違いない。

確かにアメリカでも人権活動をする弁護士がいないわけではないが、それは極少数に限られる。基本的に、弁護士は法的サービスを提供すること報酬を得る職業であり、法律事務所はそれによって収益を上げる法人である。

「いやいや、アメリカは大手事務所でもプロボノ活動をして金銭的に余裕のない人の法律問題を解決したりしているじゃないか」という人がいるかもしれない。

以前、同僚が「裁判所に行って来た」というので、何の事件なのか聞いてみたら、「プロボノだよ。〇〇弁護士が、もっと法廷に行って、法廷での対応を経験して場慣れした方がいいから、プロボノ事件を受けて練習しろって言うんだよ。」

そうなのである。プロボノ事件は対内的には、クライアントさんの事件で失敗されては困るので、将来の本番に備えるための練習の場である。対外的には、営利ばかりをむさぼっているわけではなく、プロボノ事件も引き受けて社会のお役に立っていますと、良いイメージを発信するためのアピールの手段である。

若手弁護士にしてみれば、プロボノは、例えば、ヘアサロンのカットモデルの髪をカットするのと同じ感覚なのかもしれない。「練習中なので上手にカットできないかもしれませんが、我慢してください。あなただってサービスの対価をきっちりと支払っていないのだから。」また、プロボノ事件で費やした時間のうち一定時間はCLEクレジットの単位として認められる州も多いので、小規模の事務所の弁護士にとっては、外部主催のCLEクレジットの講座をお金を支払って受講するよりプロボノでも引き受けるか、ということになる。


日本でも、法科大学院制度が開始され約10年となる。法科大学院に高額の学費を支払い*、さらには、無給で修習をしなければ、弁護士になれない。加えて弁護士の人数増加により競争は激化し、日々の生活もままならない弁護士もいると聞く。また、一般のサラリーマンと変わらないかたちで企業で働いている弁護士も増えてきた。すると、本当に弁護士の使命は本当に人権擁護なのか、その根拠は何なのか、弁護士は単に法的サービスを提供することで報酬を得るサービス業者、あるいは、単に法的知識が豊富な一社会人に過ぎないのではないか、と考える弁護士も多くなってきたのではないだろうか。

「弁護士の使命と役割は人権擁護である」から人権活動を行うために資金が必要との名目で高額な会費を請求する弁護士会に対する不満を抱いている弁護士は増えてきたようだ。一つ前の投稿である「 弁護士会の矛盾と国際化からの立ち遅れ  日本の弁護士になることを勧められないもう一つの理」のアクセス数が異様に多かったことがそれを物語っているような気がする。


*予備試験を合格すれば法科大学院を卒業する必要はない。